粋筆



いまさら「火星大接近」の話

昨年夏の何日か、火星が接近してくるよてんで一瞬巷は沸いたとさ。折りしも締め切り間近(後に3ヶ月伸びることとなった締め切りの事ですハイ)で一日パソコン前だった私はいわゆる自宅缶詰で籠の鳥的に何度も窓辺に行っちゃあサボッていたのだが、日も暮れかけんとする頃なにやら下界が騒がしい。ひょいと覗けば我が家から真下に見下ろす二階建てマンションの屋上で4人の男女が七輪でホタテや魚などを焼きつつ楽しそうに歓談しておる。よいよい。そのようにして火星を始めとするあらゆるものを見ようって事だな。などと広い心でいたわけですよ自分が書けないことは棚に上げてネ。しかし。その後何度窓辺に行っても奴らは呑んでいる。スタートが17時くらいだったのに21時は勿論23時も楽勝1時でもまだまだーって感じで呑みつづけている。さすがにどうかと思ったけれど「だらだら呑み」に関しては意見できる立場でないので放っておいてさぁ寝ようと決めた深夜四時。まさかとは思いながらも覗いたそこで。あろうことか・・・。女子は帰ったね。しかるに男二人だね。何をしていたか・・・答えはこうです。「全裸でラジオ体操」。・・・。8秒固まりましたその後にあっはっはと声を立てて大いに笑ったのでありました。行き詰まって泣きそうになりながらパソコン前で項垂れていた事も忘れ、ふらふらしながら真剣に体操している愛すべき馬鹿たちに二分間ノンストップで涙を浮かべて腹を抱えた深夜4時。その笑い声に気付いたかよろよろ手を振っている。おー、馬鹿だねーと答えれば酒がないのーと訴えるので待ッテイヤガレと日本酒抱え輝く月を肴に合流。パンツを穿いた愛すべき馬鹿たちは青学生とデザイナーを目指すハタチの青年でありました。眩しいくらいに夢を語り倒し故郷に錦と2万回繰り返した挙句私が脚本で賞を取った暁にはドレスをデザインするからと指差しながら宣言し30分後握手でバイバイ。白んだ空に浮かんだ月の右下に寄り添ったアレ、アレが火星かそうなのか。人の世も捨てたものではない等とたわけた事を呟きながら仰いだ空にウインクにも似たバランスで苦笑いしつつ浮かぶ月と星。窓辺に立ってふと思い出されたのでいまさらながら火星の話。酔っ払い青年らの成功を、いまさらながら祈りつつ・・・。04.4.13





「嫁ぐ」の話

結婚するわとメールが来たのは東京スウィカ如月公演稽古も佳境というある日の事でした。彼女との出会いは遡る事17年桜舞い散っていたかは定かではないがともかく春でした、だって入学式なのです。中学高校と6年間クラスも一緒でしたがべったりの仲良しでは決してなく、むしろサボってばかりの私を叱っているが最後は呆れて放っている・・・という構図の二人。しかしともかくつきあいは現在に至り、その彼女が結婚するから来てね、ハワイに。なんてなメールをよこしたのがこれまた春の始まりと。ミスバイタリティー、ポジティブ、アクティブ、計画的で無駄が無い元気印で太陽バックがよく似合う。嗚呼眩しいの二日酔いなのウコンそしてシジミ汁・・・などと呻く私の手を取って輝く世界にスニーカーでジャンプな彼女の事だ、きっと面白い式を計画しているのだろうという期待を三段跳びで上回るナントモ素敵なウェディングでした。年上でお医者さんの旦那様はカナダ人で優しく呑気で気のいい紳士。「彼女と友達でありがとう」とにっこり笑って手を差し出した、いえいえあ、はいこちらこそなんて困ってシマッタでもその彼女への愛が生み出す優しさが大変に嬉しくてなんだか泣けた。当日朝のお迎えは街中で見かけるどんなリムジンより長く白く、口をあんぐり開けたままたどり着いた教会で見た溢れる日差しと純白のドレスに包まれた彼女の最高の笑顔。緑のレイをかけた彼に生涯を誓う姿に走馬灯の如き駆け抜ける馬鹿みたいに笑って過ごした月日たち。その後のパーティーではビーチでスカウトしたという美しき乙女のフラダンスやらこれまた若き時から知っている妹夫妻の七頭舞(!)から両親のピアノとチェロの演奏にエレクトーン。バックには優しき海、迎える砂浜、抜ける空・・・嗚呼倒れそう。ブライドメイドの私は泣くわけにもいかずシカシこりゃ参ったぜぃとアロハなカクテル片手に感無量でハワイの夜は更けるのです・・・。幸せに、幸せになって下さいと呟けば、17年来の「縁」って奴が白い歯見せてにっとグラスを揚げました。04.4.5





「夕焼けの丘写真館」無事終了

ご来場くださいました皆様、応援してくださった皆様本当にありがとうございました!
 さて。前回の粋筆から随分と空いてしまいましたのは、私の遅筆とサボり癖と物事の同時進行が出来ない駄目な性格の賜物、いや賜物ではないナンダ、産物じゃないや、えーと敗因じゃないし、嗚呼言葉が出てこない!本当にモノを書いているのだろうか、誠に遺憾です!・・・それはさておき、書かなかったもう一つ重要な理由・・・勘の良い方はお気付きだった事でしょう。そうです。前回粋筆に書いた通りであれば今ごろは青森の農家にてダチョウを追いかけたり野菜やブタや我が子を育てている筈の制作石津が公演中普通に客入れ及び前説をやっていた事に・・・。毎回公演をするとなると何かしら事件が起こるわけですが、前回公演で降板劇を体験した辺りでもーう怖いものは無いだろうと高をくくっていたのが大間違い。今回は。・・・人一人いなくなりました。・・・失踪??まあその事はまた改めるとして、要は石津の仕事を引き継いでもらうべくお願いした制作さんが、稽古開始と共に忽然といなく・・・嗚呼何故にこうも何かあるンだ。平和に公演を打つことはもはや不可能なのか、あスイマセン独り言でした。ともかくいなくなってしまって制作が不在では公演も無理だと。しかしすでに動き出してるぞさぁどうすると。慌てて羊と緊急会議(@ゴールデン街)をした結果ここは石津にとどまってもらい、チケットやら広報的な事は私達と今回お願いしてある優秀な助手たちで何とかするから、それでも手の回らない福祉とグッズと当日の炊き出しとSTAFFさん・劇場さんケアと客入れ、前説頼む!頼まれて!という結論に。そしてヨシやったろうぢゃないのと引き受けてくれたんですね、アリガトウ偉イ!デモ!シカシ!留まって二ヶ月滞在を伸ばしたら「やっぱ青森に行くのは止めて海外に」と・・・嗚呼、書ききれない。あの石津の行動と思考を粋筆に一回でまとめようなんて到底無理なんだ私が馬鹿だった。とにかく石津は本日ロンドンへ旅立ちました(作家失格ですとも、ええええ)しかしスウィカの人間ですのでこれからもどうぞよろしくお願いします(ヤケッパチ)。私も今夜からしばらく脳みそ虫干しの為南の島に行ってきます。緊急の場合は・・・強く念じて下さい。では。04.3.3





歩くうた。(つづき)

 嗚呼。なんてな終わり方をしてしまいましたが、我らが制作石津君はかわいい一人息子君の成長と愛する旦那様の実家のお手伝いをするべく青森へ帰省する訳なんです。そして本当なら良くぞ決めた頑張るのだぞと送り出さねばならぬ吉田比佐両氏は事情を聞いたお好み焼き屋で呆然としたまま箸を止め、涙が鉄板に落ちてジュウと音をたてるのではっと我に返っては午後の光の眩しさにまた目を細めては無言でランチビールを飲み干したのでありました。石津、行ってくれるなよ。と言ってしまうのは簡単な事よと彼女がトイレに立った時、吉田は小さく言いました。いつだって無理だよ出来ないよと言う石津にそこをなんとかと拝み倒し泣き付いて仕事をしてもらっていた私も今回ばかりは素直にハイと言えたのは、石津の意志の篭った目と、今やるべき事がしっかり見えている人の強さを感じ取ったからでありました。決めた彼女は頼もしく、そして美しかったので、大概往生際の悪い私も今回ばかりは涙で鉄板をジュウジュウ言わせながらも、心から頑張れ乾杯をする事が出来たのです。石津、無理ばかり言ったこと、謝らないけどありがとう。頑張れよ。・・・さてさてそれじゃスウィカはどうすンのかと申しますれば、そこは頼もしき制作のプロを招き入れまして今回は初の二桁公演だ日時指定チケットだ!という訳で新しき動きが着々と進められる中、東京スウィカ制作部青森支部となった石津君も動きを止めたわけではなく、恒例にしていきたいボランティア公演や物販手配などを電話だFAXだインターネットだこのやろーとハイテックな時代に相応しき働きにて活躍をしてくれておる訳であります。そんなこんなで公演を一月後に控えた東京スウィカは制作部を青森にまで広げ、さらにパワーアップいたしました事をご報告致しまして、僭越ながら新年のご挨拶とかえさせて頂きます。人には歩く自由がある。懐かしい詩を口に出して言ってみて、よしとひとつ手を叩き、襟を正して稽古に向かう、歳の始めの朝はきりりと冴えてございます。本年も変わらぬご贔屓の程、よろしくお願い申し上げます。04.1/6





歩くうた

という谷川俊太郎の詩を読んだのは中学2年生の秋だったと思う。クラスの皆で郡読をした。人は歩く。てくてく歩く。人は歩く。とぼとぼ歩く。人は歩く。おろおろ歩く。人には歩く自由がある。
 東京スウィカの始まりは、私と吉田(主演)と石津(制作)が出会った所へ遡る・・・7年前でゴザイマス。とある映画の撮影現場で私と石津(当時は俳優だった)は出会いました。私は齢21歳、石津君はアロウコトカ10代でありました。キャラが強くていじられていた彼女に興味を持ったがその後連絡を取り合うことも無く月日は流れ、私はとある劇団のワークショップで吉田と出会い舞台で共演する事と相成りました。ベテラン陣の中で歳も近く話も合ってしかもダブルキャストで仲良くなり、出会って3ケ月で一緒に暮らす運びとなり、その引越しパーティーに呼ぶメンバーを考えていたその時に。私の古いアルバムを眺めていた吉田が「(石津を指して)私彼女知ってる!」てな訳で運命の糸はわりと普通にするりと繋がったのでありました。再会を果たした三人は当時私と吉田がアルバイトしていたバー(後に石津も働く事となった実に幸運な、しかし三人イッキに辞めて行くという実に不幸なバーでありますマスターごめんなさい)のカウンターで酔っ払いのうちに話し合った事には。そろそろ客演は卒業してやりたい事をやったろやないの、という事で劇団を立ち上げる運びと相成り、私が脚本と演出を、吉田が俳優を、んじゃ石津は何する?なんて言っていた矢先に「えへへ、実は」と妊娠が発覚。「動けないのでとりあえず制作」みたいな感じで、それでも青空に向けられた鉄砲はパーンと小気味良い音でスタートを告げた!・・・のかもしれないと。それが「東京スウィカ」なんでした。制作の仕事などやったことの無い石津は初回の時やる事を覚えられず手にメモしていたのが足りなくなり、腕から肩にかけてメモ地獄の耳無しホウイチのような状態で泣きながら、それでも見事に仕事を覚えていきました。二回目の公演ではメモ帳を首から下げるという技でホウイチ地獄から見事抜け出し、三回目にはナントそのメモ帳を助手に預けられるまでの成長を見せ(書いてて情けなくて涙が出ます)、今では遅筆の癖に呑んでばっかりの私や何があっても「大丈夫だよ」とクールに言い放つO型丸出しのミスマイペース吉田をぐいと現実に引き寄せては電卓片手にとくとくと説教を喰らわせる、頼もしくも恐ろしい、まさに「鬼の制作」が出来上がったのです。「死にはしない」が合言葉の私と吉田が大穴を開けていた劇団のお財布は石津の手によってしっかりぐるぐる巻きとなり、よって吉田は芝居に、私は劇作に専念する事が出来るようになり、スウィカはここへきてやっとこ落ち着いてよちよち歩き出したかのように見えました。が!その石津がこの度東京スウィカを休団することとなりました。・・・のですが、このつづきはまた次回。嗚呼。03,12/15





嶋俊介さんを偲んで・・・

俳優名鑑の撮影の現場で久しぶりに会った仲間に突然聞かされたとき、何を言われているのか理解するのに小さな宇宙的時間がかかった。声優で俳優の嶋俊介さんが亡くなられた。
 東京スウィカの旗揚げ公演は2001年10月で、それまでは役者の仕事しかしてこなかった私と吉田(主演)と石津(制作)は「公演づくり」というものの大変さに音を上げそうになりながら出演してくれる俳優を捜していた。当たり前だが経験も浅い私たちが声を掛けられる人には限界があり、ベテラン陣の配役がままならず三人して頭を抱えていた時、出演を快く引き受けて下さったのが嶋さんだった。片田舎のお寺の家族の話で、物静かだけどふとした瞬間に「家族」という池にぽつりと石を投げ込むおじいちゃんであり住職というキーマン的な役どころを悔しいくらいにお茶目にそして深く優しく演じて下さった。網膜剥離の手術を終えたばかりで眼帯を付け、いつも一番に稽古場にやって来て静かに台本を読んでいらした。その台本の端っこには稽古場にも連れて来ていた制作石津の幼い息子の名前が書き込んであり、尋ねると「最近すぐに人の名前を忘れちゃうんだよね」と恥ずかしそうに笑っていらした。本番中は一度も楽屋に入る事無く、何度お薦めしても「ここが落ち着くから」と暗いセットの裏でスタンバイされたいた事が思い出される。私のつたない演出を確実にこなして下さった上で生み出される演技の深みと共演者への愛情がどれだけ座組みを和ませ、そして現場を引き締めてくれた事か。打ち上げの席で「これからは廉さん達が創って行く番ですからね」と言ってくれた事が前も見えないままに走り出してしまった私にどれだけ力を下さったことか。
 行き詰まってパソコン前に貼った初演チラシを見上げると、今日も嶋さんと目が合った。おだやかに微笑んでおられるのをじっと見つめ、優しく、ご自分に厳しかった私たちの「住職」が守ってくださるような心強い思いになるのです。嶋さん。私一緒にお仕事させていただいた事、誇りに思っています。ありがとう。ありがとう。私たちの住職へ。心より、ご冥福をお祈り致します。03,11/23





流れゆくカタチ。

電車で移動という事であればそれはもうもっぱら読書でゴザイマス。今なら座れたときはノートパソコン開いてカタカタしている始末。我ながらゆとりがないもんだと嘆かわしい限りですが、車窓から景色を眺めるナンテ事はほとんど無いのが現状です。そんな私が「そこ」を通るときばかりは無意識に顔を上げてぼんやりしてしまうのですからこれは可笑しい。
 川が好きです。海よりも山よりも湖よりも、さて一仕事やり終えたらまず思うのは、川に行きたいタダヒトツ。私が一人でバタバタもがいた日にも、サボった昼も自棄になった夜も頑張ったと言えた朝にもこの川は変わらぬ顔で流れていたのだと確認するのが好きなのです(笑)。
 つい最近は「東京モーターショー」に出演していたのと、ドラマ撮影でTBSのスタジオに通っていたのとで毎日幕張又は鶴川へ電車で移動。つまりは毎日荒川、江戸川または多摩川を超える事になっていました。そしてその移動中電車が橋へ差し掛かる時、どんなに集中していても、これホントですけど眠っていてもふっと顔が上がってしまい、ただぼんやりと眺めてしまう、それが私の「川」なのです。
 15歳の時四万十川をカヌーで下りました。その後も何年か続けて夏の終わりに出かけました。一人乗りのカヤックにテントから衣服、食料全てを前と後ろにバランスを考えて積み込んで、約60キロを4,5日かけてゆるゆる下り最後は海まで出るのですが、そのごく薄い板一枚隔てて水の上に座るという感覚がとても新鮮で感動的だったことを覚えています。激しい瀬では舵が取られないよう細かく操作し、流れのゆるいところではパドルを後ろに寝かせて背もたれに。足を投げ出し釣りなどしつつ、その日の気分で河原を選んでテントを張ってご飯を炊いて・・・。川は朝と昼と夜とでは全然違う音を出していて、そのどれもがそれぞれに一人漂う私に話し掛けてくるように聞こえて心強かったものでした。ただじっと目を閉じて「流れ」をはっきり感じ取る時同時に自分の「速さ」を知っては考え直したりするんでした。
 きっとあの頃私は川に静かに助けてもらったのでした。どんな一年が過ぎようと川は変わらぬ流れをたたえて在り、齷齪しては泣いたり喚いたりしていた自分を恥じてはまた繰り返すと知りながらせめてひと時流れに任せる心地良さ。
 そのうち忙しいなどど理由をつけては川下りは見送りに、もうカヌーでもないだろうナンテ半分諦めてしまってはいるけれど、今ふいに顔を上げた先に横たわる川もまた煩悩に塗れた私には頼もしく、そうだまた行ってみようか等と思い立ちはするものの実現するのはいつの日か・・・。ともかく今日もふと見やると秋の日差しを素直に受けてきらきらまぶしい川面が広がり、ありがとうと小さくほほえむ車中のひと時でありました。2003,11/5





パリの夢。

平賀ケイという画家をご存知だろうか。もう亡くなってしまったが、アバンギャルドで色彩豊か、ビビットな作風が面白い画家だった。
 私は1975年のパリに生まれた。画家だった母が描いたパリの風景画を絵描きが集まるので有名なモンマルトルの丘で父が売っていた。
 60年、70年代にパリに住んだ日本人は数多く、皆それぞれに夢を持ち花の都を目指したものだ、と、後に父から聞いた。平賀ケイもまた60年代後半から移り住んだパリの町をふらふらと歩いては沢山の絵を残した画家だった。中でも異色な「ピガール」なるストリップ小屋がひしめき合ういかがわしくも華やかな街を愛し、裸の娼婦が桜吹雪の中でパスタを食べるナントいうような一度見たら忘れられない迫り方をする作品を数多く残した。
 そして同じ頃パリに住み、近年は新宿で生演奏のJAZZが聴ける店のマスターとなったM氏もまた父の仲間で心優しい紳士だった。平賀氏の作品が壁一面に飾られた、お洒落にうらぶれたご機嫌なお店は大変な人気。いつも沢山のお客さんで溢れていた。散々ハシゴした挙句にその店へたどり着き、機嫌のいい日には聴ける生演奏でのマスターの歌を耳の端っこに漂わせ平賀氏の絵に囲まれるというのが私の幸せなひと時であった。
 そのマスターM氏も去年亡くなったのだと久しぶりに立ち寄ったゴールデン街で聞いた。切ない思いを胸に寄ったその店は若い人たちの集う新しい形を見出しながらもM氏が作ったパリの香りと佇まいに上質な音楽、そして勿論平賀氏の圧倒的パワーで迫ってくる絵画の数々が変わらず温かく迎え入れてくれるようで、妙にほっとしてワインを頂いたはいいが今夜も必要以上に呑んでしまったりするのでした。
 幸せなひと時は健在であると再確認で満足なほろ酔い帰路には夕焼け色の柿が月明かりを受けて光っていました。秋が、来ましたね。 2003,10/7






恋する一冊(2)。

(つづき)そう、ご本人からのお葉書が。私は「えっ・・・」としばしポスト前で固まってから我に返り、急いでその達筆な葉書の文面を読もうとしました。達筆な・・・達・・・読めない。全部の文字が繋がっていて情け無い事に全体の一割も理解できない。参った。参った私は年寄りなら読めるだろうと(←失礼)行き付けの呑み屋の親父に読んで貰う事にして葉書を持参、しかしこれまた親父も3割程度しか読めない。マイッタ。マイッテいたら、よーし任せてオケとその店の常連6人がかり(平均年齢55)でああでもないこうでもないと回し読み、30分後無事に読解。すでにほろ酔いの私に戻ってきた訳文はこんな風に綴られていました。「拝啓廉さん。素敵なファンレターをありがとう。あの本はもともと昭和26年5月から放送されたNHKラジオの無名原稿として書いていたもので、当時の喋り言葉などそのままに作ったものです。随分と読みにくい個所もあった事でしょう。番組が終わって40数年経って本にしましたがそれも四年前の事、今は84歳を迎え長年連れ添った病妻の看病もあり、3年前に筆を折りました。折角の期待に応えられずごめんなさいね。頑張って下さい、応援しています。萩谷朴」・・・あっという間に我に返った私は、背筋を伸ばして葉書に頭を下げたはいいが、どうにも切なくてやりきれない感じがどっと来ました。鼻の奥がツンとして、切ないありがたい大変嬉しいでもちょっと悲しいみたいな複雑な思いが交錯するままに、その晩はちょっぴり呑みすぎてしまったのでした。
 それからどうなったのかというと・・・実は嬉しいペンフレンドです♪私は日々の感想をつらつら書いたり、劇団のチラシやパンフレットを報告として送り、先生は相変わらず青の万年筆で読めない葉書(ただの下手っぴぃだと最近気付いた(笑))を下さって、それを「いや違う」「分かったこうだ」などと言いながら酔いどれのうちに回し読むオジサマ達を眺めては一杯呑るのが私の楽しみの一つとなっている訳なのです。いつか傑作を生み出した暁には先生のお陰ですとお礼がてら会いに行くぞと呟きながら、今日も恋する一冊がくれる極上の言葉に酔いしれるのでありました。2003,9/19






恋する一冊。

俳人に歳時記が、羊に聖書があるように、私には「風物ことば十二ヶ月」(萩谷朴著・新潮選書)という大切な師書があります。その名の通り1月から始まり、その月ごとの行事や花や節句遊びなどを紐解いて分かりやすく解説した後にほんの数行作者萩谷先生のユーモア溢れる感想的コメントが載っているといういわゆる「ゆとり本」。項目も「濁り鮒とごみ鯰」とか「お彼岸さん」「十六夜の月」「帰り花」と、ついその由来やいわれが知りたくなってしまう、まるで思わず頼まずにはいられない旬の肴のメニューのよう(どうしてもそっちに行ってしまうのね・・・)。数年前に出会って恋をしてから今日まで毎日と言って過言で無いくらい頁を開いてきました。そして沢山のヒントや優しい気持ちを貰ってはありがとうございますという気持ちでいましたが、ある時ふと、そのありがとうを伝えよう、と思い立ったのです。というのも作者紹介の欄のお仕舞いに住所が記されていたのです。1917年のお生まれとあり、未だお元気で同じ場所に暮らしているのかも分かりませんでしたが('98の初版でした)ともかく私は筆を取る事に。そして官製葉書に水彩絵の具で下手な絵を書き(夏の夜の川に架かる橋の上で浴衣に団扇の少女が月を仰いでいるナンテナ絵です)、端の方に「大変美しい言葉たちに毎日助けてもらっています、ありがとうございます」といった内容の言葉を一言添えて、月の冴えた晩にポストにコトリと入れたのです。それですっかり満足し、変わらず日々頁をめくっては幸せな気分になっていたのです。ところがある日、ナント萩谷先生ご本人からお返事の葉書が届いたのです・・・が、このつづきはまた次回(笑)。 2003,9/12


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