粋筆


「スランプ」について

表題だけで笑ってしまった方及び全く笑えなかった関係者の皆さんこんばんわ。寒くなりましたねーという世間話もはばかれる公演三ヶ月前、いかがお過ごしでしょうか(私だけか)。
今回の題名の理由は別に現在私がそうだという訳ではなく(いや本当に)その昔スランプだった時にあまりに作業が進まずしかし時間は進むというのに現実逃避的にマンガを読んでしまい気付くと朝だったなんというくだらない自分に耐え切れず、友達に「そゆ時ってどうしてる?」と聞いてみたことを思い出したからで、決して私が現在そうだという訳では…もういいですね。で、結果はどうだったのかというと、驚く無かれ(そんな大層な話でもないよ)満場一致で「スランプ時の現実逃避は有り」という意見にほっとした(?)のでした。ただ、やってる事は同じなのに考え方がキッチリ二派に割れており、一方は自分がスランプだと言うことを認めないまま走るタイプで、スランプなどであるものか、原因は他にあるのじゃと、中断しているにも関わらず、ここに糸口があるやもしれぬと正当化し続けるタイプ。このタイプはその間人には会わないし、映画を観たり本を読んだりしてるくせに平気で3日徹夜したりするらしいンです。そして何の根拠も無く「環境は整った」と満足するとスッと仕事が進むという。ストイックなのかなんなのかよく分かりません。そしてもう一方は私も含む多くの人が行う「体がもう一体あったらな〜」とか言いながら最後は「明日にしよ」と辞めてしまう。これはもうそう言った瞬間にテレビつけちゃうだの、友達に電話するだの酒呑むだの、中にはひたすらに玉葱を刻むだの、親孝行してみるてのもありましたが、一度頭をカラッポにする事でチーンとアイデアが浮かんだりという事はあるもので、まあなんにせよ、追い詰められた時にする事がおしなべてごく小さな範囲での逃避であるというところに愛おしさを感じたりしたのですがいかがでしょう(笑)。
ちなみに私はネットサーフィンをしていた深夜に見つけた「世界の人口カウンター」というページに行って「6394532249」などというカウンターの末尾が一秒間に三つづつくらいカタカタと増えている、つまり一秒間に三人のスピードで人口が増えているのだという事を確認すると、なんだかこうしてはいられないと言う気持ちになります。…が、それでスランプは脱したのかと言うと、それはまた、別のお話・・・。04.10.6




「いなくなる」ということ つづき


その緊急会議の場所はゴールデン街で、結果無理言って石津の力を借りて前回公演は無事に運んだ事は前に書いたのですけれど。ともかくその制作さんは「いなくなって」しまった。それから誰も連絡を取れたという人はおらず、制作陣を派遣していた小さな会社は消滅してしまったようであり。私たちはキツネにつままれたような気持ちながらもたまに彼女の安否を話題にしていたある日。劇場で会ったSTAFFさんに聞いたのは。彼女は当時担当していた3劇団の制作費を持って逃げてる。スウィカは制作費を渡すところまで至らずラッキーだった。…ガーンとショックがきてからガッカリした。しばらくすると腹が立ち、思い出したのは、初めて会った喫茶店でテキパキ打ち合わせを進める彼女が席を立った時、吉田と二人、良かったね、これで大丈夫と確信しニヤリと握手したあの瞬間。あの安心感、仕事の速さ、人脈、経験彼女における全ての要素が「いなくなった」のが計画と知った途端、音もたてずに壊れて消えた。さようなら。
もし仮にどれくらいか時が流れて再び会うことがあったとして、私は彼女を二度と信用することが出来ない。信用しないのではなく出来ないのだ。それは私にとって、なんて悲しい答えだろうか。
「いなくなる」という彼女の計画は成功したのかもしれない。そうして次へ行こうとしたのかどうかは知らない。ただ、私は忘れない。「いなくなった」は勿論「なかった」にはなり得なかった。「おしまいです」と決めていいのが「始めた」人とは限らないという事を出来ればしたくなかった経験をもって学んだよ、とか呟きながら二度と会わない彼女の記録を携帯から消した。
バイバイと声に出し携帯を放り投げた時、聞きなれた音が聞こえて振り返る。ああ、そうだった。大丈夫なんだったいつだって。私比佐廉、今この瞬間をもってこの事を嘆くのは最後にすると誓います。今夜も頼れるパートナー吉田羊がいつもと変わらず冷静に仕事をした証の「連絡」とか「確認」とかいう題名のメールが届いたこの音にかけて誓いますと呟きながらマウスに右手をかけるのです。04.9.13





「いなくなる」という事

東京スウィカ看板女優吉田羊は冷静な人であります。毎日が泣いたり笑ったり落ち込んだり空回りしたりの「特技パニック」の制作部石津陽子とは対象的過ぎてもはや同じ世代を生きたとは信じがたい程の。私はといえばそんな二人の間で無責任に「大丈夫大丈夫」と言っている係なのだけど、実はこれでなかなかバランスが取れている辺りが東京スウィカの妙とでも言いますか。脚本の執筆が始まると他の事は何もしなくなる私をよそに事務的な作業を着実にこなしていくのも吉田の技で、それって制作の仕事なんじゃ…などという台詞が石津に届く頃には 羊「終わったよ」 なんてな事はしょっちゅうです…なんていうと石津が何もしていないのかと言うとこれが恐ろしいことに現場での対人となれば、石津だから許されちゃう数々のエピソードがあり…が、その話はまた今度するとして。
 3回目の公演の時「失踪事件」がありました。制作さんが忽然と消えたので。外注は初めてで、広報やチケット管理は勿論、人脈も実績もある方だったことですっかり安心しきってこれまで三人でバタバタやって来た制作作業をお任せすることとなった…が。消えてしまったのだ、突然に。連絡が取れなくなって3日間くらいはメッセージを残したり決定事項をFAXして「お忙しいから」なんて平気だったのが、チケット発売日も過ぎ稽古初日になっても連絡が付かず、会社代表が痩せきって謝りに来て警察が動き始めた辺りでさすがの我々も青くなった。折りしも石津が制作も決まったしと安心して青森に帰っていた時で、さすがに呑気な私と冷静吉田も今度ばかりは事情が分かった瞬間にゆっくりと目線を合わせ、そのまま無言で頷き合って緊急会議をするべく歩き出したのでありました…が、この続きはまた次回。04.8.30





「唸る」の話

旅ぃ行けぇ〜ばぁ〜…どうも浪曲です、虎造です。広沢虎造が大好きなんです子守唄とまではいきませんが…BGMではトップ5。
モノを書くような外敵シャットアウト状態で無い限り我が家にはこのだみ声が流れる事が多いです。
浪曲が歌舞伎や落語のように続かなかったのは虎造がうますぎて後に出てくるものは皆一様に虎造の真似事に終わるか、たまに自分節で闘うのが出てきてもファンが虎造を超えないと言って認めなかったからだ、と聞いた事があります。…なんてこと。俳優のように「なんだか分からないけどこの人の雰囲気好き、独特の世界観が芝居に出てるからOK」なんて奇特なファンは存在しない厳しい世界だったからこそ生まれたスタァ。虎造。
私のように、モノを創ろうと思ったら!足元に毒草があろうが棘がはだかろうがイバラが茂ろうが切り開く者にこそ道は与えられるのだ!進め俺!…などと息巻いて鼻息も荒くする日々でも。ボタンを押すと、あのやる気無いマイペースなだみ声が耳に流れ込み、縛り付けてる迷い事のいろいろがものすごくどうって事無い感じに緩和されていく空気。旅ぃ行けぇ〜ばぁ〜。え〜と。締め切りは…まぁ良し。この問題はまたね、今度。とか言いながらビールを取りに冷蔵庫に向かってしまう清清しさよ…幸あれ!
そして私は今日もまた世の迷いごとにぶつかり心がとんがりそうになりながら「おっとあぶない」とボタン一つ押せばまた。かのスターは小気味いい程のマイペースさでだみ声上げて唸っては平成の駄々っ子に一瞥くれて颯爽と赤城の山を目指すのでした。「もっとこっちぃ寄ンねえ、おぅ?江戸っこだってねぇ」「おめぇの正直は上に馬鹿がつかぁねぇ」よっいいねぇいい調子!ナンテ酔いつぶれるのは時間の問題ではありますが、何卒皆様、うちの制作部には内密に…。04.8.2





「時を越える仕事」の話

少し涼もうと入った書店で手に取った本に「広島」の文字を見つけ、またこの季節との再会です。この夏オフィス・サエ公演に参加することになり、日々稽古場に通っています。モノを書くこと創ることを仕事にし、勉強中の私が何故今そのカンパニーに参加しようと決めたかと言えば、ディレクションする上での経験の浅さを痛切に感じている事や知ったつもりで分かっていない過去を知るチャンスと思ったのも大きいけれど、一番にはやはり演出家露川冴女史の魅力があります。母くらいの歳の彼女が持つバイタリティーと前向きで明るい性格。声をかけていただき話を聞いたその時に、現実に追い立てられこなせば成立する仕事が連続している今こそ、優しさと厳しさが交錯する中に溢れている彼女の生き様に触れるべきだと感じたのです。演出の他に演劇講師や子供たちのワークショップもやっている彼女は、年間4.5本の東京公演に加え、地方での学校公演などもこなしていますが、彼女に聞いたエピソードで、忘れられない話があります。小学生を対象にやっていたやはり広島が舞台の公演の時。ピカにあって靴も無く裸足で焼け野原を歩いているシーンで、客席にいた小学生たちが次々に自分の靴を脱ぎ、演じている俳優に渡そうとしたというのです。これあげる。これ履いて。熱いだろう、痛いだろうと心配して子供たちが差し出した靴を見ながら俳優たちは泣かずに芝居を続けるのに必死だったと言いました。
演劇などと言うものは、とくにそれが実話の場合、経験していない者が演じている嘘にどれだけ真実味を持たせられるか、演出家はどれだけ俳優をその気にさせるかでその空間が「ホントウ」になっていくから面白いのだと思います。知る事なんてできるわけ無いけれど、1945年の夏「広島」に在って夢を持ち必死で生きた一人の少女に会いたくて、私は今日もひとつ大きく息を吸って稽古場の戸を開けるのです。04.7.20





「夢のまた夢」の話

モノを読む行為は一日に静かに幕を引いてくれるようで心休まり、私は何人かの友達が自分のHPに書いている日記や随筆を読んでまわる。一日の最後に酔いどれながらパソコンに向かい、届いたメールに返事を書いてからHPを観に行く日課。
 梅雨が明けて暑さが本格的になったせいか眠りが浅くて妙に夢を見る…と思ったのが今朝で、今夜もふらふらHPを覗いていると。今日だけで日記に「夢」のことを書いている友が三人在った。おっと?こりゃみんな同じ状態か?さすれば昨夜は日本中の夢指数が高かったに違いない!などと深夜に興奮してみたところでそれなら自分の見た夢はと言うと、朝のコーヒーを飲んでいるその間に真昼に浮かぶ月が空に溶けるがごとく薄れて消えて記憶に無い。夢は長くて5秒、と聞いた事がある。だって大スペクタクルの長編だったノニあれはナント説明するのだ!と声を荒げて反論するもそれはほぼ想像力の賜物で、よーく考えてみると絵として見た場面はそんなにたくさん無いはずだと言われて反論できず。なんだか悔しい。
 ひとつ思い出したことがある。中学生の頃、夢を忘れてしまうのが悔しくて枕元にノートを置いて夢を必死で書きつけたが、目覚めて読み返すと全く覚えていないのだと話したら誰かが私に言ったのだ。夢との境を見失うと早く死んでしまうから夢日記を書いてはイケマセン。それは確か一冊目の夢日記が一杯になった頃で、それを聞いたからかは定かでないが結局そのまま二冊目の夢日記が始まることは無かった。そのノートは今私の前にある。けれどその中に書いてあるエピソードたちは、私の字だが私の知らないお話ばかり。読みながらなんだか妙な気持ちになる。これは一体ナンナノダ?私の記憶の範疇に無い一冊の世界。そして私にこれを止めさせたのは誰だったのだっけ。夢日記を書くと早く死ぬと教えたのは…。
 思い出せないことが一つ増え、それが全体良いのかどうかも分からなくなった頭でノートを閉じてふと思う。あれは、夢だったのかしら、と。04.7.14





再会

「時計草」という花をご存知でしょうか。蔦物で節ごとに蕾をつけ、咲いた姿は本物の時計のように真ん丸で紫で細い花びらは文字盤のよう、そこに針を思わせる奇怪な形の雌蕊と雄蕊、静かなこの瞬間も時が刻まれている事を伝えるように、掌の形の葉の間でチクタクそっと咲く不思議で形の良い初夏の花。私が初めて見たのは丁度10年前の四国でした。カヤックで四万十川を下り漁船で鯨の親子を追いかけた私は気持ちの良い疲れを抱えた体で小さな路地を歩いていた時にふいに呼ばれたように振り返って。そこに「時計草」は咲いていました。目に留まった時あまりに珍しくて「なんだこれは!」と呟いた様に思います。東京に戻って当時好きだった男の子にこれこれこんな花を見たの素敵だったのびっくりしちゃった!なんて一息に喋ると、ヴァイオリン弾きで植物に詳しい彼は「それは時計草だよ」とにっこり笑って教えてくれ、私はへぇーと感心したものでした。
 8月に本当に久しぶりに俳優として舞台に立つことになりました。稽古がぼちぼち始まって、駅から向かう道、その花に再会したのです。嬉しさと懐かしさにしばし立ち止まり思いを馳せれば、あの時にも聞こえた「チクタク」がまた夕暮れの路地に聞こえたような気がしました。それからというもの、稽古場に向かうたびに愛でながら、あの彼はどうしているだろうナンテ懐かしみ目を細めると同時に、忙しかったり諦めたり思い直したりする日々の中でその花たちに「時ノ流レニサラワレテハイケマセン」と静かに言われているような気がして、小さく「はい」なんて応える路地、台本を取り出して読みながら、梅雨も少し時間を気にして戻ってくればいいのになと照りつける太陽に手をかざすのでありました。04・6・28





「夏は来ぬ…」

小学生、特に高学年ともなると、見た目の成長は勿論、考え方や場をまとめる能力は女子が圧倒的な力を持つ。週に一度、私は演技の基本と言ったらおこがましいが、某プロダクションで講師をしている。春が来て中学生クラスに上がった新中一のオキャン達は、これまで男子を叱り飛ばしていた元気はどこへやら、先輩との関わり方や制服に袖を通した途端芽生えた大人としての、もしくは俳優としての自覚を持ち、謙虚な中に緊張感を抱え、ピシッと稽古場にやってくる。6.3.3年の日本の教育制度が内容でない個人の自覚を目覚めさせる為であるなら大正解だと思えるのは、ここが「伸び時」と言っていい程彼ら彼女らが目覚しく成長するのを見る時である。
小学生クラス時代は主張の強い女子メンバーの中で目立つこともなく、しかし課題は確実にこなしておとなかった生徒が稽古の前に来て「今日で辞めます」と突然に言った。マネージャーから「先生にもご挨拶してきなさい」と言われたのかもしれない、うつむいて小さく告げて頭を下げた。個人の成長にも期待が高まる時期だけに驚いて「どうして?」と尋ねたら「学業がままならないから」と大人みたいなことを言う。それが理由なら私など辞めなければならないことが山とある。俳優も辞めるのかと聞いたらそれはまだ分からないと答えた。そりゃそうだ。まだ分からない。気兼ねすることなく判断を下すにはまだ少し時間のある歳だ、12歳である。
いつもと変わらぬ、でも彼女にとっては最後の授業を私は始めた。途中休憩をとり、にわかに騒がしくなる教室を抜け、ぼんやりタバコを吸っていると彼女がトコトコやってきた。下を向いていたかと思ったらぱっと顔を上げて言ったのだ。「先生、寂しいです」と。小さい声だけど私の目を見て、まっすぐに立って。寂しいです。手にしたタバコもそのままに私はびっくりしてしまい、返事の前に涙が落ちた。彼女は綺麗ににっこり笑って「ありがとうございました」と頭を下げトコトコ教室に帰って行った。表現しよう皆の前でやってみようと呼びかけた授業の中で一度も主張しなかった彼女が、講師と言う立場の私の前に一人でやって来てこんなもストレートに感情を伝えたのだ。「寂しいです」ナンテ私も大人になったけどそう言えない。灰が落ちるのもそのままに、状況が巻き起こす人の衝動と言うものを深く感じてマイッテしまったのでありました。後半授業を終えた帰り際「私も寂しいけど会えて良かったよ」と目を見て言ったら、見た事もない素敵な笑顔でうなずいて「さようなら」と手を振った。いつか会おうねと心で言うと去っていく彼女の背中を初夏の日差しはまっすぐ照らし、それがあんまり眩しくてもう一度涙を拭う午後なのでした。04,6,20





「メディアの力」

演劇というものに関わるようになって18年という月日が流れた。子役劇団に始まり、10代が集まって公演していたミュージカルが4本、途中中国舞踊に転身して東京、大阪、名古屋、北京などでの公演を経た後にやはり芝居に関わりたいと劇団ひまわりに入所。所属していた3年間で7本程の公演、プロダクション人力舎やらオフィスMやら渡り歩いて現在のプロダクションタンクに落ち着き、東京スウィカ旗揚げ、コーラスグループSWICA結成と相成り今に至るが、その間にも「メディア」を通して様々な経験をさせて頂いた。主に舞台の畑で育った目で見れば、テレビの世界というのは実に事務的かつ効率的でその実ひとたび入り込むと人間臭さの集大という実にやっかい故に愛すべき世界であると。私は感じている。芝居の稽古場は分かりやすい。創りたいと思った者が動いて駒を配置し、それを了解した人々が公演に向かって全力を尽くす。それに対しテレビというのはまずスポンサーとそれを電波に乗せるための局、そこに指名された制作会社という媒体がある程度の力を持つ、という時点で監督、舞台であるところの演出家が軽く(実は多大に)良くも悪くも抑制されるという現実が生まれ、それ故だろうか、長い現場には並ならぬ連帯感が生まれたり・・・ってンなこたいい。そういう事が書きたいンだはなく。メディアというものに乗っかる度に思いがけないところからのアクセスがあって嬉しいと。その中の一つに小学校の頃毎日のように遊んだ友からの手紙があり、それによってこれまでなんとなく別のフィールド的にこなしてきた映像の仕事に向かう姿勢も改まった・・・てな事を書きたかったのだけどなんだかわからなくなってしまったのでそれはまた別の機会に。ともあれ「観たよ〜」は嬉しいなと。現在はSWICAで火曜の朝の「おはスタ」やインターネットラジオ放送「ブギウギステーション」をやっていることで、観たよ、聴いたよと懐かしい友から続々お便りが届き、返信を打つキーボードの指も踊る梅雨のひと時。美しい夏を作るための長雨なのだと思える歳に、なりました。’04.6.8





「給料明細」の話


こんな仕事をしていると無縁と思われる給料明細だが、実はちゃんとやってくる。一応事務所には入っているしプロダクションの先生をしているしね。それはさておき。
 先日仕事の合間に銀座の喫茶店でコーヒーを飲んでいた時のお話。隣の席には高齢の紳士がお二人。揃って80は超えているだろうと思われるその品の良いお二人のお話を聞くともなしに聞いていたところによれば。「○○さんは日本に戻って某企業に入ったようだよ」「○○さんはそのまま満州で嫁をもらったが去年亡くなった」「行きたいが体力的に難しい歳だ」「満州は遠い」「もう知り合いはいないだろう」・・・どうやらお二人は昔満州で働いていたようである。私の祖父も満州にいた。満州鉄道で最後まで働いていた人なので母や叔母、叔父は引き上げの最終チームということになる。祖母は向こうで看護婦をしていたが、好きなエピソードは祖母が仕事の後ブランコに乗ったはいいが酔って落ちた所に祖父が通りかかり大丈夫ですかと声をかけたという・・・ホントかいな。ともあれその後祖父と祖母は日本に戻って隠居となり、その子供や孫である私たちは休みとあれば彼らの家に集まって無邪気に遊んだものだったが、二人とも私の小さいときに亡くなってしまったのでほとんど記憶には無く残念だ。母に聞いても祖父は特に自分の事を語りたがらなかったのでほとんど分からないという。そこで唐突ではあるが隣で満州話に花を咲かせるお二人の紳士に声をかけてみた。「満州鉄道にいらしたのですか」彼らは少し驚いたようだったが事情を話すと喜んでくれ、当時の事をいろいろと教えてくれた。いきいきと語る彼らの横で、やりがいのある仕事だったのだと感じた事が何より嬉しかった。名刺を渡して握手してバイバイ。おじいちゃん、あなたの仕事が少し見えたような気がします。そしてそんな事さえ忘れたある日、かくしてそれは届いたのである。銀座であった気のいいおじいちゃんたちは動いてくれた。満州鉄道の現在の協会に連絡をとってしかも私の祖父の名前を告げ、当時の事を調べてくれた。届いた封筒の中には「あなたのおじい様は健康でおもいやりのある立派な功労者であったようですよ」との手紙と共に当時の給料明細のコピーが一枚入っていた。じいちゃんの名前とその下にタイプで打たれた金額そして捺印。それで充分だった。多くを語るに至らないままにいなくなったじいちゃんの人生の一端がそこには存在し、当時の空気と共に蘇ったその一枚の小さな紙は時を越えて孫の私に小さな力をくれたと感じた。三つ折にして封筒に戻し、偶然に私の所に届いたこの給料明細をきっと忘れないだろうと思いながらそっと静かに引き出しを閉じた。04.4.29



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